小沢健二「天使たちのシーン」の歌詞の考察

www.youtube.com

 

小沢健二天使たちのシーン」。小沢健二で僕が一番好きな曲だ。

この13分37秒を聞くたびに、様々な心象風景が苦しいほどの感傷とともに胸にせまってくる。

このブログの記事が小沢健二さんに届くことはないだろうが、地方都市に住む30代の男が、この美しい曲が描き出す世界に何度も何度も心を救われたことを文章として残しておきたい。

こう解釈するのが正解だとか、小沢健二さんの作詞の意図はこれだとか言うつもりはまったくない。あくまでも個人的な解釈である。

海岸を歩く人たちが砂に 遠く長く 足跡をつけてゆく

過ぎていく夏を洗い流す雨が 降るまでの短すぎる瞬間

波打ち際で冷たい海水に足を浸すとき、この瞬間に世界中でいったい何人の人が僕と同じように海岸を散歩したり、泳いだりしているのだろうと考える。すべての海はつながっている。膨大な量の海水が、いったいどれほどの量の生命を包み込み支えているのかに思いを馳せながら、いつも海岸を後にする。夏を洗い流す雨は、生命を包み込む海へと流れていく。

真珠色の雲が散らばってる空に 誰か放した風船が飛んでゆくよ

駅に立つ僕や人混みの中何人か 見上げては行方を気にしている

この飛んでいく風船の色はなんとなく赤で、風船は小さな女の子が持っていたような気がする。

喧騒の人混みの中、小さな女の子の手から飛び立った赤い風船は、夕焼けがせまる夏の午後の光のなかをどこまでも上昇していく。

「僕」は「人混みの中何人か」の他者もまた、風船を失った女の子の悲しみや、飛び去ってゆく風船の行方に心を馳せて、優しくどこか切ない気持ちを抱いているのではないかと想像を働かせる。

「僕」は、ふわりと風に運ばれて遠ざかる赤い風船越しに、温かい心で他者と互いに分かり合うことができる可能性を感じ、孤独を抱えた心が少しだけほぐれていく。

いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋り出すのなら

何千回ものなだらかに過ぎた季節が 僕にとてもいとおしく思えてくる

文章どおりに解釈すれば、「何千回ものなだらかに過ぎた季節」は、「僕」にとっては永久に「いとおしい」ものだとは思えないのだろう。なぜならば、「いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋り出す」という仮定が満たされることはありえないからである。(もう一歩踏み込んで具体的に言えば、人類の誰もが自然の美や芸術を尊び、クリエイターとなって唯一無二の(ベンヤミンのいうアウラを備えた)言葉・作品を発信するようになる、という仮定は根源的に実現不可能なものである。)

全体主義のもとでの付和雷同や、他者への寛容さを欠いた思考停止に陥らずに、人と人が思いやりコミュニケーションを成立させることのどうしようもないほどの困難さを「僕」は受け止めている。

「僕」は、生きづらさを抱えながらも、なだらかに過ぎてゆく季節をやり過ごして生きている。

愛すべき生まれて育ってくサークル

君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則(ルール)

「サークル」=「世界」※は、「法則(ルール)」に従って繰り返される。(※歌詞中の「サークル」は、英単語の原義に近い意味で「循環する完全な宇宙」とか「永遠回帰する世界」と言い換え可能だと思う。以後は単に「世界」と表記する。)

繰り返されるメロディは、繰り返しなだらかに過ぎてゆく季節のように、繰り返す「世界(サークル)」の実相とそれを統べる「法則(ルール)」のメタファーとなっている。

「君」とは誰をさしているのか、色々と解釈ができるが、「いままさにこの曲を聴いているあなた」のことをさしているのだと思う。「僕」は「いままさにこの曲を聴いているあなた」に向けて直接メッセージを語り始める。

大きな音で降り出した夕立の中で 子供たちが約束を交わしてる

突然の夕立に濡れるアスファルトから、湿った雨の匂いが沸き立つ。無邪気に公園で走り回って遊んでいた男の子たちは夕立に降られ、口々に明日の遊びの約束をしながら傘も持たずに急いで家路についている。

この心象風景には、この「世界」の観測者である「僕」という存在が、この世界の一部でありながらも「世界」から切り離された孤独な存在であるという感覚が伴う。量子力学の観測者効果では、観測する行為が観測対象に影響を与えるとされるが、観測者である「僕」が観測対象である「世界」に対して与えることができる影響は皆無に等しく、「僕」の存在は降り出した夕立がかき消した陽炎のように儚い。

金色の穂をつけた枯れゆく草が 風の中で吹き飛ばされるのを待ってる

真夜中に流れるラジオからのスティーリー・ダン 遠い町の物語話してる

 

枯れ落ちた木の間に空がひらけ 遠く近く星がいくつでも見えるよ

宛てもない手紙書き続けてる彼女を 守るように僕はこっそり祈る

季節は晩夏から秋へとうつろう。

深夜、ラジオの電波塔から発せられた電波は、星空の輝く秋の乾燥した冷たい空気を伝播するうちに磨かれて澄み渡り、クリアな音質となって「僕」の部屋のラジオに届く。

「彼女」は、「僕」のおもいびとであるが、恋人関係にはない。「彼女」は、「僕」以外の誰かに愛を向けていることを「僕」はよく知っている。「守るように僕はこっそり祈る」ことが、「僕」の「彼女」に対する愛のかたちである。先述した「僕」と「世界」の関係と同様に、「僕」と「彼女」の関係においても、「僕」は単なる観測者に過ぎず、「僕」が「彼女」に対して与えることのできる影響はゼロではないかもしれないが限りなく皆無に近いことが示されている。

愛すべき生まれて育ってくサークル

君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則(ルール)

冷たい夜を過ごす 暖かな火をともそう

暗い道を歩く 明るい光をつけよう

「僕」と「君=この曲を聴いているあなた」にとって、この世界は「冷たい夜」であり、「暗い道を歩く」ように日常をやり過ごさねばならない。

だが「僕」には、冷たい夜に焚き火で暖をとるようにして、暗い道を懐中電灯の光を頼りに歩くようにして、生きていく意思がある。「僕」は、願わくば「君」にも、生きていく意思を持ち続けて欲しいと願っている。

毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉をつむいでる僕は

生命の熱をまっすぐに放つように 雪を払い跳ね上がる枝を見る

「毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉をつむいでる僕」は、前述の歌詞にあった「花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋る」存在、つまり、唯一無二の言葉・作品を創造するクリエイターである。

厳しい寒さのなかでも命を絶やすことなく、静謐に、しかし力強く生き続ける木々のたくましさにクリエイターである「僕」は勇気づけられている。

太陽が次第に近づいてきてる 横向いて喋りまくる僕たちとか

甲高い声で笑い始める彼女の ネッカチーフの鮮やかな朱い色

太陽が西に沈みゆき、地面に「僕」と喋りまくる友人の影を落とす。再び永い夜を迎えるモノクロームの世界のなかで、「僕」にとって「彼女」の存在は、そのネッカチーフの朱色のように鮮やかで特別なものである。

愛すべき生まれて育ってくサークル

気まぐれにその大きな手で触れるよ

長い夜をつらぬき回ってくサークル

君や僕をつないでる緩やかな 止まらない法則(ルール)

「気まぐれにその大きな手で触れる」の「その」は、指示語として「サークル」を受けている。では、気まぐれに「サークル」の「大きな手で触れる」とは、どういう意味だろか。

これまでの論考では、歌詞の「サークル」は世界の意味で捉えていたが、ここではもう一歩踏み込んで「一神教の神が統べる世界」や、単に「一神教の神」の意味であると考えてみたい。つまり、「気まぐれで大きな手で触れる」のは神の見えざる手であり、触れられるのは我々一人ひとりの人生である。

「僕」は生きにくさを抱えて「冷たい夜を過ごし」「暗い道を歩く」ように人生を送っている。そんな「僕」の存在を、神は見守ってくれていると「僕」は信じたいと願っている。

涙流さぬまま 寒い冬を過ごそう

凍えないようにして 本当の扉を開けよう カモン!

月は今 開けていく空に消える

君や僕をつないでる緩やかな 止まらない法則(ルール) ずっと

神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように

にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている

耳を傾けている 耳を傾けている wow wow(終)

「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」という歌詞は、生きづらさから希死念慮を抱えながらも、それでも神の愛の存在を信じて前向きに生きようと懸命に足掻く人間にしか書けないと思う。神様へのまっすぐなラブレターに胸を締め付けられる思いがする。

「にぎやかな場所でかかり続ける音楽に僕はずっと耳を傾けている」という締めくくりの歌詞からは、観測者である「僕」は、観測対象の「世界」や「彼女」に対して限りなく無力であるかもしれないけれども、それてもクリエイターとして人生を肯定的に受け止めて生きていく姿勢が示されている。